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思いついたことをオチなく書き出すブログ

高校友達との京都旅行3日目2018/11/24

 

ついに最終日となる京都旅は、

外から聞こえる仕事の話で目が覚めた。

僕たちの泊まっていた宿は、

アパートの一室のような感じで、

角部屋だった。

 

壁あるんかー?というくらい声が聞こえた。

「休みなのに間違えて出勤してしまったら、もうそれ取り消し出来ないからね」

と、念押しの言葉だけが聞こえたが

気が付いた時にはまた寝ていた。

2回目に起きたのは7時くらいだった気がするので、なかなか早朝の出来事だったと思う。

 

みんな起きてくる中、

1人悲しい夢をみたらしく意気消沈していた。

こんなタイミングで観るなよ!とみんなでツッコミつつ慰めた。

 

疲れててトランプしなかったねと、みんなで笑う。

修学旅行感を、演出するために

枕投げだけ申し訳程度にしておいた。

 

部屋を出る時間になる

あぁ、あっという間だったね。

と、すこしこの部屋を離れるのが寂しくなる。

鍵を閉めて外に出ると、隣が焼き鳥屋でいい匂いが漂っていた。

 

京都、美味しいものがたくさんある。

家の近くになくて逆に良かったと思う。

 

 

世界のでき方

こないだの記事で260年の江戸時代であんまり大きな変化はないから、おれが生きている間に見れる変化は教科書で数ページにしか満たないと思うとどこか寂しいというのを書いた。

それからぼんやりこのことを考える。

 

今でも、おそらく子どの時思い描かれていた未来の世界にたどり着くの数年の間には無理だ思う。

ネコ型ロボットはいないし、バック・トゥ・ザ・フューチャーの世界も実家可能なのはきっとずっと先なのだ。

そうした現実を知って、なんだ、全然じゃんとがっかりしたのもまた子どもの時。

でもその時から、がっかりしてる俺をよそ目に世界は着々と進み始めて、出来る様になったことが増えた。

いきなり空飛ぶ車ができるわけなくて、声で操作するものができるわけなくて、

みんなの考え方が切り替わるなんてこともなくて、これまでの人類のコツコツとしたより良い世界にしたいという思い(儲けたいでも別に良い)のおかげで、便利になったり、不平等な扱いを受けている人が少しずつ、少しずつ減っていくのだ。

教科書に名を残したいわけでもないし、載ることはないのだろうと思うが、世界を良くしてきた人たちの一員に未来でなっていれればなぁと思う。

 

生きているとなんでこうなってるの?と、不満が募ることも多いが、過去にいた名を知る人たちたち、名も知らぬ人たちのおかげで、そう思わないで済むことや、ずっとずっと楽になっていることが沢山ある。てか、生活の全部がそれと言っても過言ではない。

 

世界は悪い方向に向かっているという言葉をよく聞く、それは確かにそういう面もある、でもずっと良くなってきたこともある。

感謝と問題意識みたいなものを心の隅にいつでも置いておければと思う。

 

とはいえ、未来への興味は尽きないな、覗けるよ!っていったら覗く自信ある。

 

あー、感謝とか秒で忘れてこのあとヘラヘラしてる自分の未来は数分後なのにーー

 

 

 

隣の青い芝生を眺める幸せと明るい未来を望む話。

やりたいことはすぐやったほうがいいだの、行動が大事だのという言葉、

明日死ぬとしたら何をするかそんな気持ちを持って生きていきましょうというようなメッセージを受け取ることが多い。

時間は無駄にはできない、だから、やりたくないこと余分なことは効率化して、短時間で処理する。時短に時短を重ねる、テレビ番組を、1.5倍速で楽しんだり、果ては2倍速なんかで飛ばしたりとにかく多くのことをこなして、知識を吸収して視野や自分を好きなものを確立させたり、たくさんのことを娯楽とし楽しむのだ。

 


自分はわりとそれに従って生きている。

だけど、最近になって本当にそれが正しいのかということを疑問に思う。

 


死ぬ間際にあーしたらよかった、こうしたらよかったと思う人生は本当に不幸なんだろうか。海外に憧れている人がずっと行きたいと言い続けているだけで、実際には行かないみたいなこと。ともすれば揶揄されそうなこと、でもそれでいいんじゃないかと思う。

心の中にいつだって、憧れだけの桃源郷があったっていい。知って理解を深めることだけが、幸せではないと思うのだ。

同じようにがっかりすることもあるんだし、知れば次を消費したくなる。だから終わりはない、たくさんこなした方が幸せか?

消費や行動がやめられなくなってるだけなのかも知れない。わかっていても、俺はもうしばらくはあらゆる行動と消費が止められなさそうだ、モヤがあるまま。これは現代病だろうか。

 

 

 

それから中途半端な知識がいい方向にいかないこともよくある。変に知るから、思考が生まれる。自分の身の周りで起きてないことにまで意見や首を出したくなる。

どこかで得た知識だけで思考が生まれていたりする。良し悪しあるのは前提だ。これだって、ないに等しい断片的な知識からの意見だけど、心の性とかなんとか。体と心の性が一致しない病気という表現、病気かそれは?と思う。

それにそんなに興味を持てない、知らない隣人が誰に恋しようが興味がないのと一緒で。なのにそれが大きい問題になるのは嫌がるようなことをする人が居るからだろうか。よくするために言葉が生まれたのかな。わからないものに名前がついているとほっとするかな。人間比較比較の中で生きていくしかないから、必要だったのか。未来は定義の言葉が必要なくなるくらいにずっと良くなると信じたいな。

 

なんであろうが人を傷つけないように生きていけばそれで回避されることはたくさんあるのにと思う。

人間同士のこういう問題なんかなくればいいのに。もっと別のことにみんなが取り込むようになったら見たこともない世界に出会えるかもと思ったりもしている。未来からみた今の思考や社会や生活はどう考えられることになるのだろう。

歴史の授業で昔の人、と一括りされてた、した存在にいずれはなっていく。

江戸幕府の260年という長さを聞いた時、不思議な感覚になった。渦中に生きてた人はそれがずっとずっと続くと思って居たんだろうか、きっとそうだ。そう考えると時代の変化はとても緩やかなのだ、生きているうちに爆速で考え方は変わっていってくれないかな、江戸幕府の4分の1くらいしか頑張っても生きられなさそうだ。そう考えると少しの変化しか感じることはできないのだろうか、少し寂しいことだ。

連絡した方がめんどいし気を使うわ

‪自分は同じように思って接していても人によってよく思ってくれていたり、そうでもなかったりして、まぁそりゃ当たり前なんだけど、なんに限らず自分から連絡する方が気を使う方が多いから、よっぽど仲良いか連絡したいじゃない限り待ってる方が色々気にしなくて楽なんだね、そりゃみんなそうなるわ。

必要とされる時に出ていく方がきっといい、お節介なまでなつもりは無いけど。相手から(特定の人物でない)からしても、

そっちがよかろう。なんか人間関係ド下手な気がしてきた。

自分が思っていた以上に繊細なところあるわ、めんどうだ。殻に閉じこもることを良しとしない信者という自分の中の中にある一部分を沈める

 

晴れる気持ち

 

これからの自分に不安を覚えたり、劣等感に苦しくなったり、俺はおれだ!とか、それらを俯瞰して自分を眺めてみたり最近してた。

 

ふと自分の書いたブログを読み返した。

数年前、死にそうになってたりするけどすごく一生懸命もがいて生きてているね。

今と変わらないようでいて、窮鼠みたいな図太い生命力がある自分。

 

今日楽しかったり、思うことが沢山あった。さらにさっきカネコアヤノのラジオ聞いてたら、元気出てきた。感情に左右されやすい自分、より良くなる。

目指すべき姿(少し前に書いた


人に良く思われたい。
自身の道徳に反しないか、それを指標にしていたところがある。

自分に何ができるか、などの視点で自分をきちんと考えたことはなかったし、
なにができるようになりたいというぼんやりとしたものはあったものの
それが実行できていたことはほとんどない。

不自然で窮屈だったところから、立ち位置が変わってきたと感じる今に
改めて自身が目指したい精神状態、思考を考える。

客観的に自分を見ないで、すごく本能的に生きてきすぎた。
あらゆる欲求が強い。それがストレスなら打ち消す必要がある。
夜中に不安になるのは不健全だ、それをもっと冷静に見つめて鎮める必要がある。
他人頼ることなく。

自分自身で処理できる範囲のストレスしかため込まないようにしなくてはいけない。
唯一の一人にすべてを乗せてしまうことは必ずいい結果をもたらさない。
思春期から大人になるまでの間、変に依存先を見つけてしまうことは不幸にもなりうる、
人生の致命傷にもなりうる。問題になるのは失った場合だけど

少なくとも今は一人、身を削るほどの苦しみが嫌ならば、
やはり自分だ、自分の調子は自分で整えるべきだ。
辛いから誰かを求めるやり方もあるだろうが、俺はそこから脱却したい。

パートナーが居る居ないにかかわらず、
死にたくならないで済むように。

愛情の対象を広げるのがよさそうだ。
好意の矛先を枝分かれさせる。

身の回りの、家族、友人ではあくまで人だから
この場合はそれ以外にすべきだ。

例えば、建造物、だったり、作品だったり。
完成されているもの、不特定多数に対するもの、自分にだけ向けられていないものならば
存在している以上のものを求めることを自制する必要がないし、
受け取り方を自身で調整できる。自身の問題として処理できる。

知ることが何かを好きになれるきっかけのひとつ。
知識が0よりも、1でもあったほうが美術品などを楽しめる可能性もあがるし。

花や水面の煌めきが好きなのは自身の傾向として理解できている。
それから美味しいごはん。
これはその時の感情(寂しいだとか)に左右されないものとして非常に良い。
物語はその時の感情や自分の状態によって左右されるけど、逆に別の精神状態に引っ張ってくれるところもある。
「不特定多数に対するもの」に当てはまるし。

作品に依存しすぎるものよくないけど、コンテンツ消費に躍起になってしまうことは
時間が限れる人生において最善とは言えない。

配分は必ずしも自分で決まられるわけではないから。
良質なコンテンツに触れる必要があるわけではなく、あくまで自分が好きだと心底、
無駄だとそのあとの人生をひっぱるような時間の過ごし方でなければいい。
これは難しいけどね、どの時間が良いかは、とても難しい。

目に入れる必要のない情報、沸かす必要のない、思考や感情。
これらは極力脳内から、生活から排除するようにして
入れたい情報、知識、精神状態を保てるように意識する必要がある、
自身が突飛な人間ではないから大きく世間から外れることはできないだろうし、
逆にそこにコンプレックスを感じる必要もない。
存在しているものや、気持ち、まずはこれを飲み込むこと、
そしてここで、一旦一般的には・・・と知りうる限りの知識と比較するのをやめる。
どうせ誰かとは違う思想だし、みんなとイコールはないから、
社会とつながるときにその場に合わせるのが良い。

とにかく一人の時はできるだけ、脳に介入してくる外野の声をおいだして、
自分で選んだもので対応できるようになるのが良さそうだ。

どうせ自身に沸く感情などはこれまでに、蓄積してきた外的要因が混ざり合ったキメラみたいなものなのだから。
選ぶことも、なにもかもが。それならせめて、これまでの蓄積から最良だとできるだけ思える、自身の核
または、理想とするような感情、思想でありとあらゆるものを飲み込んでいくべきだ。やはり。
話が堂々巡り。ここで今日は終わる。

自意識からくる悩みに終止符を

最近日々の人間関係の合間に考えていることといえば、自分という人間についてばかりである。

これまでの過ちや、今の自分自身の性格、思考を出来る限り俯瞰してみることで、

精神の安定や、自立、誰かを助ける余裕のある自分を構築しようとしていたり、ただ見てるだけだったり。

 

自分というのは昔から中々に自意識の強い人間で何かにつけて、考え込むところがあった。

それは年々増すばかりで止まらなかった。

 

さらに良くなかったことは自分の調子づけるものを他人や、外部的な要因ばかりに頼りすぎたことだ。自分が甘えられる存在を作り、コンプレックスや、自信のなさをそこにのしかかけるように生きてきた。

そうしてそれが良くないと気がついていながら改善することができずにここまできた。

自分の状態を自分で管理することを、怠ってきた。

 

性格を変えるのは難しいという、俺もそう思っていた。けれど、自分の性格を形成しているものは、あくまで経験や知識、触れてきた環境でしか無くて、さらにその中から取捨選択してきた者たちにすぎない。

体という容器にカレーみたいに多彩なスパイスが入れられて作られているのだ(余談:いまだ最寄でお好みの店見つからず)

だとしたら、自分はこうであるというのは別に自分自身で作り上げてきた者では無くて、外部的な要因が殆どだ。無からカレーできるわけじゃないみたいに。あったスパイスで構成されてる。そうすると自分の考えというのはあくまで、環境からとってきた知識の複合体みたいなもの。そのカレーの味に納得していたり、誇りに思っているのであれば別に作り直す必要や、意識的にスパイスを調合する必要はないけど、自分の場合、満足できていない。表面上優しくできても、中身は優しくないとか。

 

生活の所々で沸き立つ感情はこれまでの環境から形成されたものにすぎないと考えれば、かなり冷静に対処できるようになった。

動揺もかなり抑えられる。

俯瞰して見過ぎるやり方、人間的可愛げに欠けるし、なんか自分の感情が他人事みたいに思える時もあるし、ずっとするもんじゃないと思うけど、所詮これも、まだこれまでの延長線上レベル。もっと俯瞰できれば、キャラクターみたいに自分を扱うことまでできるんじゃないかと思うけど、そうするまでの自己嫌悪はどうやらないみたいだ。

自分の性格に対する認識は発言であったり、思いついたりすることで分類してると思う。

例えば掃除や皿洗いがめんどくさいと思ってしまった。→めんどくさがりな自分

という風な自分の認識。

人に話すと、この人めんどくさがりな人なんだと認識される。遺伝子レベルの気質は一旦置いて考えると、言われた言葉は基本的に身なりや挙動に疑わしさがなければ7割くらいは飲み込むものだろうし。

でも、実際のところ、掃除や皿洗いに対して思うことは大体の場合10:0とかじゃないはずだ。

めんどくさい6:綺麗にしたい4

だとしたら4をメインに選び思いつくようにしたり、発言すれば自他共に綺麗好きな人間の出来上がり。大きなことも小さいことも基本はきっとそうだ。

なりたい自分…これもその時々の行動や発言で形成されているだけだからへんな表現か。

そうだな、居たい自分の方がしっくりくる。

時々にこっちでいるためには、自分できちんと選び取ること。

そのためには、自分の所作を一つ一つ分解して見つめてイマイチに思うものを変えていく。

この小さな積み重ねが大切だと思う。

自己啓発本にもたくさん書いてそうな話、なんなら、保健体育の心の授業レベルかな。

でも、自分の場合はこれに自分で辿りついたことが大きいと思っている。本で読んでも、入ってこん。

自分というものを、過不足なく認識する。

 

今回書いたことは全部自意識からきたこと。歳を重ね、自分が他の人の悩みでいっぱいになった時に、自身の精神的な問題解決が済んでいないとまずいなと思っているのもあるし、

こんな精神状態でいつまでもいるのもね。

同じ壁にぶち当たった時の光の見出し方はきっと人それぞれだ、俺はいま、この方向に舵を切っている。ちなみにいつでも変更するタイプであることは書いておこう。

それからこれは自分のメンタル調整用に行き着いた考え方で他の人がどうとか言う話ではないことも。