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思いついたことをオチなく書き出すブログ

言葉の型

 

何にでも名前がある。

俺も生まれた時に名前をつけられた。

その瞬間に俺はその名前になった。

 

生きているとあらゆるものに名前が付いていた。

父と母、兄にも、名前があった。

妹が出来た、いつのまにか名前が付いていた。

 

これなんだろうと思うものには大体名前があった。みんながあやふやにいうものでも何でも正式名称がある。

ものは作られたときに名前が付けられる。

名前があれば消えないのか。名前がないから消えるのか。あるものは後で言えるのに。ないものはあとで呼んでもらえないのは少し寂しいだろうなと思う。

 

定義にも名前がある。

それは理解するためなのに区別するためなのか、便宜上のものかもしれない。

例えばLGBTなどよく聞く最近だけど、

ほんとは名前なんか付けなくてもいい社会であればいいのになと思った。

自分とは違う考え方を持つものに対する違和感を打ち消すために、理解するためにその言葉があるように思うのだ。

大多数より、少ないもののために。

生まれ持った病気とか心と体の性の不一致とかいうのも嫌だし。でもそうしないと、理解できなかったんだろう。

 

俺も、ふっと、その事実だけを投げられたら

ナニソレってなったのかもしれない。

言葉があるおかげで、認識して理解して、

そういうものだと思うんだろうし。

なんとも複雑な気持ちにはなるけれど。

もっと当たり前のことになればいいのになと、そうなってほしいなと思う。

そうしたら定義の言葉はそんなに社会的な言葉じゃなくて済むだろう。

 

性格診断、あなたは〇〇な性格です。とかいうやつ。

喜んでやった。〇〇タイプに分類されたがった。それに。お前はそういうタイプだとか。大分類のどれに当てはまるのかたくさん言われたし、多分言った。

1人1人を個人として分類するとなにも進まないからだ。

性格診断をやらなければどれでもないのに。

珍しいタイプであれば喜んだし、大多数であればやっぱりそうかとなった。

なんでもない。みんな他人でみんなが1人なのだ。だからいいんだと今はなんとなく思うけどねぇ。