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思いついたことをオチなく書き出すブログ

繕った思想を言うのはもう終わり

これまで自分がその時々で正解だと思ったことはわりと間違っていたことに今頃気づいた。

余計な一言、一晩考えて出した結論でも、結果後から良くなかったと思うことも多くて。

 

何かにつけて考えたり、意見を持ったり、情緒のある人間でいたいという考えが自分を繕い続けてきた。何かをいう時、皮肉を言う時、思う時

そうでありたい自分のようなものが、言葉を発して考えた気になっていた、

何かを言葉にしていくことは理解を深めることもあるかも知らないが、自分の場合は言葉で固めてしまうことでそれを浅いものに、遠いものにしてしまう気がする。

借り物の言葉と思想、元々は思慮深いものであっても、自分がそれを自分の意見に取り入れてしまって発した時、それは途端に戯言になる。

 

間を埋めたくて、相手が少しでもクスッとするように、言葉を埋める自分、これまでずっとそうだった。

 

思い返して飽き飽きするような、恥ずかしい気持ちになった。もうあまり誰かに自分から連絡する勇気がない、なんと中身の無い言葉を発していたのか。

 

曖昧なものだったのにわざわざない語彙力と知恵で、自分の理解できる言葉に当てはめてしまっていた、説明もなにもできていなかった。

 

自分の考えなんてなくて、触れてきたものを、近くにあったものをぐちゃぐちゃに自分の中で溶かして、吐き出すだけの機械のようなものだ。辟易だ。思想などないのにあるフリをしていたんだと思う。

 

見に見えない世界とか、気持ちとか、概念とかそういうことばかりに気を取られていた、そして少しは他人が理解ができたと、自分をより深く知れたと、勘違いした。そして、誰かを傷つけたり、呆れられたりした。

もうほんとにそういうのは嫌なのだ。

周りも見渡してみても、自分と同じよう人はいない、すごく幼いのかもしれない。客観的に自分を見れたのなら、どう思うんだろうか。怖い。

自分が特別というつもりもないけど、精神的に成長できてきているとか、そんな気持ちをどこかに持ってしまっていた。

 

これからは何かにつけてよくわからない思想を持ち込んだりしないで、観測するような気持ちで物事を見てみたい。

 

そう考えていたら、美味しいもの食べる時、水が陽の光を反射するとき、花を見つけたときその辺りが本当に好きなんだなと改めて思った。

 

不安だが、これまでよりフィルター無く人の話を聞けたり、好きなものがより濃く見えるような気がしている。