自意識からくる悩みに終止符を
最近日々の人間関係の合間に考えていることといえば、自分という人間についてばかりである。
これまでの過ちや、今の自分自身の性格、思考を出来る限り俯瞰してみることで、
精神の安定や、自立、誰かを助ける余裕のある自分を構築しようとしていたり、ただ見てるだけだったり。
自分というのは昔から中々に自意識の強い人間で何かにつけて、考え込むところがあった。
それは年々増すばかりで止まらなかった。
さらに良くなかったことは自分の調子づけるものを他人や、外部的な要因ばかりに頼りすぎたことだ。自分が甘えられる存在を作り、コンプレックスや、自信のなさをそこにのしかかけるように生きてきた。
そうしてそれが良くないと気がついていながら改善することができずにここまできた。
自分の状態を自分で管理することを、怠ってきた。
性格を変えるのは難しいという、俺もそう思っていた。けれど、自分の性格を形成しているものは、あくまで経験や知識、触れてきた環境でしか無くて、さらにその中から取捨選択してきた者たちにすぎない。
体という容器にカレーみたいに多彩なスパイスが入れられて作られているのだ(余談:いまだ最寄でお好みの店見つからず)
だとしたら、自分はこうであるというのは別に自分自身で作り上げてきた者では無くて、外部的な要因が殆どだ。無からカレーできるわけじゃないみたいに。あったスパイスで構成されてる。そうすると自分の考えというのはあくまで、環境からとってきた知識の複合体みたいなもの。そのカレーの味に納得していたり、誇りに思っているのであれば別に作り直す必要や、意識的にスパイスを調合する必要はないけど、自分の場合、満足できていない。表面上優しくできても、中身は優しくないとか。
生活の所々で沸き立つ感情はこれまでの環境から形成されたものにすぎないと考えれば、かなり冷静に対処できるようになった。
動揺もかなり抑えられる。
俯瞰して見過ぎるやり方、人間的可愛げに欠けるし、なんか自分の感情が他人事みたいに思える時もあるし、ずっとするもんじゃないと思うけど、所詮これも、まだこれまでの延長線上レベル。もっと俯瞰できれば、キャラクターみたいに自分を扱うことまでできるんじゃないかと思うけど、そうするまでの自己嫌悪はどうやらないみたいだ。
自分の性格に対する認識は発言であったり、思いついたりすることで分類してると思う。
例えば掃除や皿洗いがめんどくさいと思ってしまった。→めんどくさがりな自分
という風な自分の認識。
人に話すと、この人めんどくさがりな人なんだと認識される。遺伝子レベルの気質は一旦置いて考えると、言われた言葉は基本的に身なりや挙動に疑わしさがなければ7割くらいは飲み込むものだろうし。
でも、実際のところ、掃除や皿洗いに対して思うことは大体の場合10:0とかじゃないはずだ。
めんどくさい6:綺麗にしたい4
だとしたら4をメインに選び思いつくようにしたり、発言すれば自他共に綺麗好きな人間の出来上がり。大きなことも小さいことも基本はきっとそうだ。
なりたい自分…これもその時々の行動や発言で形成されているだけだからへんな表現か。
そうだな、居たい自分の方がしっくりくる。
時々にこっちでいるためには、自分できちんと選び取ること。
そのためには、自分の所作を一つ一つ分解して見つめてイマイチに思うものを変えていく。
この小さな積み重ねが大切だと思う。
自己啓発本にもたくさん書いてそうな話、なんなら、保健体育の心の授業レベルかな。
でも、自分の場合はこれに自分で辿りついたことが大きいと思っている。本で読んでも、入ってこん。
自分というものを、過不足なく認識する。
今回書いたことは全部自意識からきたこと。歳を重ね、自分が他の人の悩みでいっぱいになった時に、自身の精神的な問題解決が済んでいないとまずいなと思っているのもあるし、
こんな精神状態でいつまでもいるのもね。
同じ壁にぶち当たった時の光の見出し方はきっと人それぞれだ、俺はいま、この方向に舵を切っている。ちなみにいつでも変更するタイプであることは書いておこう。
それからこれは自分のメンタル調整用に行き着いた考え方で他の人がどうとか言う話ではないことも。