シュレディンガーの猫な日々
「箱を開けるまでは箱の中の猫が生きているのか、死んでいるのかわからない」とざっくりと認識していた。それが物語性のある作品の中でざっくりと使われることも多々ある。
でも実際のシュレディンガーの猫はどうなのかというと、
量子が観測者がいると別の動きをする。
という「量子力学の確率解釈」というものを批判するために作られた思考実験(頭の中で考えるだけの実験)
個人的理解で
実験の内容も若干変えてまとめると、
「箱の中に50%の確率で猫を殺してしま何かと、猫を一緒に入れ蓋を閉める。」
そうすると次に蓋を開ける時(観測するとき)までは、猫が生きている確率50%、死んでいる確率50%になり。その箱の中には生きている猫と死んでいる猫が、重なって存在している。
シュレディンガーの猫では、
そんなのありえないだろ?
っていうのが言いたかったのかな。
でもこれって自分にとっては何にでも言える気がする。
ずっと会ってない、
情報も知らない同級生の話を聞いた時に、
あーあんな奴いたなとまず思う。
その人の話を聞いて(観測する)まで、
その人がどうしていたかまったくわからなくて、その話を聞いたからそうなっていたことになる。みたいな感覚だ。
蓋を開けてみるまで結果が確定していないのは奇妙であり得ないと思う感覚が、
そこまで逸脱した話にも思えなくなってくる。
身の回りで実際に起きていること以外の世界が広がるにつれて、その感覚が出てくる。
自分が年をとると、
まるでみんながタイムスリップしたみたいに
年を重ねている。
最後の観測から今までその人たちの時が自分のなかでは止まっている。
いろんなことを経験している。
これを書いている今も。
笑っているのか泣いているのか、
自分が観測しない限り、やはり確定
しないことのように思えてしまうのは、
これでも自分の人生において真ん中に立っているからなのか。
上がり下がりってあるけど、
自分の人生ですら死ぬときになって
結果がどうなのか知るのかも。